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愚か者が吹く笛の音に雲が笑う

愚か者が漏らす戯言

自粛も不謹慎も各々で判断すべき事じゃないの!?

先日、起こった熊本地震

それに伴って、社会の中で様々な声が挙がっている。
特にネットでは、かなり乱暴な意見も散見されている様に思う。

その中でも「自粛」と「不謹慎」という言葉に絞って、私が感じた事、思った事を綴りたい。

先ず「自粛」の方なのですが、「自粛」をするかしないか、が問題ではないと思う。

どの様な事を「自粛」すべきなのか。
どの様な事を「自粛」すべきでないのか。

その判断に問題があると思う。

要するに「自粛」すべき事を「自粛」せずに、「自粛」しなくていい事を「自粛」してしまっている。

そんな中で、一方的な物言いというのは、ちょっと危険な様に感じる。

結局、その様な一方的な物言いをする事で他方の「悪」を阻害出来るのかもしれないが、同方の「悪」を助長させてしまったりもする。

だから、批判するなら批判するで、きちんと批判対象を特定すべきではなかろうか。

一つの例として、自粛ムードといった、空気を批判する事は如何なものかと思う。
その様に批判対象を曖昧にしてしまう事に疑問を感じる。

それは時に、他方の「善」なる想いを踏みにじる事にもなるだろう。

人には皆それぞれ想いがある。
人には皆それぞれ考えもある。

そんな中で善かれと思ってした事が、上手くいく事もあれば、裏目に出てしまう事もある。

だったら、その裏目に出た事に特定して批判をすべきだと思う。

対象を曖昧にしてしまう事で、上手くいく事すら否定してしまいかねない。

「自粛」に関して言えば、するもしないもどちらも、正しい場合と誤った場合が考えられるだろう。

それを個々人が、それぞれ考えて行動をするしかないと思う。
その行動に対する批判も含めて、ね。

そして、その批判をする際に「不謹慎」という言葉が使われたり、その批判の方を「不謹慎」と言ったりする。

それも、はっきり言えば、本当に「不謹慎」な場合と、正当な批判である場合があるだろう。

例え「不謹慎」という言葉が誤った使われ方をしていたとして、批判そのものまで否定するのはおかしな話。

結局「自粛」も「不謹慎」も、各々で判断して行動し、必要に応じて批判もしなければならない。

そして批判を受ける側も、それぞれの判断が求められるだけの事。

聞き入れるべき批判であるのか、聞く必要のない非難であるのか。
それも各々が判断するしかないと思う。
その上で聞く必要のない非難に対してはスルーすればいいだけの事。

周囲が勝手に同情したりする事が、かえって問題をややこしくしている。

不特定多数の者の目に触れる公共の場で、何かを発信する以上、悪意も含めた様々な言葉を投げ掛けられもする。

その覚悟は必要なのではないか。

そして当人が一つ一つ批判か非難かを見極めなければならない。

面倒かもしれないが、面倒だからと言って、一緒くたにしてしまう事が問題だと思う。
一つ一つをきちんと見極めた上での対応が求められるのではなかろうか。

そして「自粛」や「不謹慎」も含めて、言動の全ては各々で判断すべき事。
また、それに対する批判も、する方と受ける方の双方で同様だろう。
それが本来あるべき自立した社会であると思う。

そして、それはネットだからと言って変わりはしないのではないか。

転載元URL(2016.4.30)
http://next.spotlight-media.jp/article/275109436578973026