愚か者が吹く笛の音に雲が笑う

愚か者が漏らす戯言

方便としての「平和憲法」からの脱却~安全保障について~

先ず、私は日本国憲法に対して改憲すべきとの考えである。

世の中というのは常に変化を伴ってもいる。

そんな中で、何十年にも前に出来た憲法を、頑なに守り続ける事に疑問を感じる。

勿論、変える必要のないものは、そのままにしておく事も大切なのかもしれない。

しかし果たして、現行の日本国憲法は変える必要のないものなのか。

正直、私は現在の日本という国家において、現行の日本国憲法は病気の様に思ったりもするのだ。

日本国憲法は太平洋戦争の結果、日本という国家が新たな歩みを進める為に公布されたものだと私は考えている。

敗戦という挫折から立ち直ろうとする日本にとって、特に九条において「戦争放棄」を謳った日本国憲法は、所謂「平和憲法」と称されて、戦後の日本という国家のアイディンティティの確立にも一役、買ってはいただろう。

それは時に良い意味での方便として、我々、日本人に誇りを与え、その誇りを胸にした国民により、日本は驚異的な経済発展を遂げてきた。

しかし、それも今や昔、なのではなかろうか。

昔は良い意味での方便となり得ていたものが、今は国家の歪みの素になっている様にも感じるのだ。

そもそも健全な国家には、ちゃんとした軍隊が必要だと私は考える。

そして本来は自分達の力で自国の領土と国益を守らなければならないのではないか。

それを日本は日米安保という枠組みの中で、他国である米国に依存をしてしまっている。

その現状をどの様に考えるのか。

米国からすれば、日本の防衛を買って出る事で、東アジアにおける影響力を高める事が出来た。

日本は安保を米国に委ねる事で、戦後の復興に傾注する事も出来た。

だから九条が良い意味での方便として、これまでは機能していた様に思う。

しかし、その過程において、日本は自衛隊を作り、米国はそれを認めてもきた。

それは自衛隊が、憲法で保有を禁じられている武力に相当するかどうかとの論争を生み、それは現在もまだ続いている。

そんな中で世界中で経済の疲弊が目立つ様になってきて、日本もそんな流れに飲まれる様に国力が低下してきた。

そして米国からすれば、国力の低下した日本との安保の価値が下がってもきているのだろう。

それが現在、トランプ氏の登場により、米国の不満が表面化してきたのだ。

決して、トランプ氏の言葉を鵜呑みにする必要はないだろうが、トランプ氏の言葉が米国の本音でもあると思うのだ。

現状、米国はまだまだ東アジアにおける影響力を放棄する訳にはいかないだろう。

しかし、その一方で安保の代償に不満を募らせてもいるのである。

その様な状況で、日本はどれ程の安全が担保されるのか。

それは日米安保の根幹に関わる、由々しき問題の様に思うのである。

要するに、米国の立場に立てば、不満を募らせている相手を命懸けで守ろうと思えるのか。

日米安保張りぼてにしてしまいかねない。

だから日米安保を有効なものにする為には、米国の不満を解消するか、日本は日本である程度、安保体制を整えるか。

そのどちらかになる様に思う。

そして、もし米国の不満を解消しようとするならば、それは際限が無くなってしまうのではなかろうか。

それは我々の子孫に負担を押し付ける事にもなり、いずれはそれが戦争の引き金にもなりかねない様に思う。

だから私は今此処で、本来、国家のあるべき姿に立ち返るべきと考える。

とは言え、すぐには無理だろう。

しかし少なくとも、米国からの自立を目指して動き始める時がきたのではないか。

いきなりだと、米国の方も色々と問題もあるだろう。

だから少しずつ、日本が米国に頼らない安保体制を整えていって、少しずつ米国の負担も減らしていく。

理想は対等な同盟国としての日米安保と考える。

その為には、自衛隊の正式な国軍化は必要だろう。

そして、その為には改憲も必要になってくるのだ。

戦争放棄」を謳う日本国憲法は「平和憲法」と称されてもいるが、私は決して平和は状態ではないと思う。

戦う選択肢を持ちながらも、戦わずに済む選択肢を模索する努力や過程が平和だと考える。

その選択を否定する「放棄」という考え方は、方便にしか思えない。

どの様な事になろうとも、努力を続けていく、その過程が大切だと私は考える。

結果としての平和が大切なのではない。

方便としての「平和憲法」から、本来あるべき国家としての「平和憲法」を目指すべき時がきたのかもしれない。

転載元URL(2016.5.9)
http://next.spotlight-media.jp/article/278752765840082109