愚か者が吹く笛の音に雲が笑う

愚か者が漏らす戯言

死刑を要求されたら死刑はすべきでない

皆さんは死刑は必要だと思いますか!?

私は必要だと考えます。

何故なら、一応、一定の抑止力にはなり得ている様に思うから。

しかし、何か事件が起きた際、被告に死刑を要求はすべきでないと考える。

それは被害者に近しい者であっても、ね。

あくまでも、処罰は司法に委ねるべきではないか。

だから司法の場で原告側が被告に死刑を求刑するのはいい。

そして原告側の話し合いの中で、被害者の関係者がその様な要求をするのも仕方がないだろう。

問題なのは、被害者の関係者がメディアを通じて、被告に対する厳罰を世論に訴えかける事。

そして、それを取上げるメディア。

要するに、被害者側の声により死刑がなされてしまう事は問題があると思うんだ。

勿論、被害者側の心情として、そう言いたくなる事は理解が出来ない事ではない。

そして、自分の声が司法判断に影響を与えて、自分が要求する刑罰を課す事が出来たら、達成感はあるのかもしれない。

でも、それでは報復になってしまう。

報復をしてしまったら、同じ穴のムジナ。

同情の余地があるとは言え、報復はエゴである。

加害者が身勝手なエゴで罪を犯す事と同様。

相手の非を問うのであれば、自分がそれをやってはならない。

例え、報復であったとしても。

やられた事をやり返して何が悪い!?と思ったりはするのかもしれない。

でも、やり返してしまったら、チャラになっちゃうという事。

要するに、報復は加害者の罪を認める事になる。

それでは被害者として命を失った者は報われない。

本来、味方になってくれるはずの身内に裏切られる事にもなる。

だから、報復をさせてはならない。

そして、もし被害者側から加害者に死刑を要求する声が公になった場合に、死刑はすべきでないと私は考える。

あくまでも、司法に全てを委ねるべき。

そして、市民が安心して司法に処罰を委ねる事が出来る様になる為にも死刑は必要であると考える。

また死刑があるんだから、処罰は司法に委ねるべき。

もし死刑があっても、司法に処罰を委ねられないというのであれば、私は死刑制度を廃止してもいいとさえ思う。

だって、被害感情に配慮を示して死刑を用意しても、それが不服であるならば、被害者に配慮を示しても無駄だよね。

だったらば、被告の人権を最大限に守った方がいい。

必ずしも被告が加害者であるとは限らないからだ。

捜査や裁判も人間がやる以上、誤りや不当な力によって事実がねじ曲げられる事はあり得る。

それによって、罪のない者の命を奪ってしまっては本末転倒。

でも、だからと言って、死刑という選択肢を排除してしまうと、それでは被害者側が一方的に不利益を被る事になる様にも感じる。

じゃあ、どうすればいいのか。

法には、その辺の不条理さを調整する役割もあるのではないかな。

だから、被告に対する処罰は司法に委ねるべきだと思うんだ。

人が人の命を奪うのではなく、法によって奪われる命は仕方がないものと考える。

そうする事で被告の人権を守りながらも、被害感情に配慮を示す事も出来るのではないか。

そのバランスの問題だと私は考える。

そんな中で、どんなケースを死刑にするかの議論を続けていかなければならない。

その議論は進行中の案件ですべきではないだろう。

あくまでも、過去の判例から、厳罰化の必要性を論ずるべきと私は考える。

進行中の案件では客観的な議論を困難にするだけだと思うから。

そして、その様な考えの私は死刑制度を廃止する事には反対。

また、死刑制度を残したままであれば、終身刑の導入には賛成。

死刑が社会の中で一定の役割を果たしている一方、必ずしも、加害者に対して有効な刑罰になるとは限らないだろう。

様々なケースを想定して、柔軟な対応が出来る様にした方がいいと思う。

勿論、それにより、悲喜こもごももあるだろう。

そんな中でも、如何に適切な処罰を課すかが大切なのではないか。

重過ぎても、軽過ぎても、駄目なんだよね。

それが犯罪を減らし、犯罪被害者を減らす事に繋がると思う。

その為にも、選択肢を増やす事は悪い事ではないだろう。

そして、被害感情に押し流されて、過剰な処罰をしてはならない。

その為に、きちんと考えて貰いたい。

加害者を憎む事が本当に被害者の為になるのか。

被害者は近しい者に加害者を憎んで貰って、ありがたくは思うのかもしれない。

でも、自分の近しい者が誰かを憎んでいる姿を見て、果たして喜ぶのだろうか。

それが、例え、自分を殺した相手であっても。

少なくとも、私は自分の大切な者が、そうなっていたら、哀しく感じる。

加害者に対する処罰は法に任せて、自分の人生を謳歌して貰った方がいい。

自分の為に加害者を憎んでなんて貰わなくていい。

これまでに、そして今も、犯罪により大切な者を失って、苦しんでいる方々。

その心痛は当人でないと、本当の意味での理解は出来ないのかもしれない。

でも、よくよく考えてみて下さい。

自分が被害者となり殺される事になるとして、残してきた大切な者に、その様な苦痛を感じて貰いたいですか!?

勿論、その要因は加害者の所為ではあるでしょう。

でも、過ぎてしまった事はもう、元には戻せないのです。

それが『命』なのではないでしょうか。

加害者の所為にして自らを苦しめるよりも、加害者に対する処罰を司法に任せて、残された者は残された時間を大切に生きていく。

それが被害者として命を失った者に対する手向けになると私は思うんだ。

そして、その為に法があるんじゃないのかな。

更に、それを促す為の言葉として、

『罪を憎んで人を憎まず』

という言葉があると思う。

誰だって、出来れば人を憎んだりはしたくないだろう。

憎む様になってしまったのも、加害者の所為なのかもしれない。

それでも、被害者の為を想えばこそ、グッと堪える事も必要なのではなかろうか。

処罰は全て司法に委ねるべきだろう。

そして司法に委ねる事が出来る様にする為には、厳罰化も必要なのかもしれないよね。

更に、その事も含めて、様々な議論を続けていかなければならない。

そんな風に私は考える。