愚か者が吹く笛の音に雲が笑う

愚か者が漏らす戯言

宗教に対する私の持論

"宗教は人の数だけあって然るべき"

これが宗教に対する私の持論。

しかし現実は多くの人々が特定の宗教を信仰する。

では、何故、そうなるのか。

私の考えは。

自分以外の誰かに救いを求める民衆と、そんな民衆をまとめたい支配者の思惑が、『神』という名の下で一致した。

謀らずも、ね。

その事で特定の信仰が広まっていったと考えている。

確かに『神』という概念は便利だと思う。

民衆からしても、支配者からしても。

『神』を信仰する事で人は強くなれたりもする。

そして多くの人は弱くて当たり前。

でも、その弱さを利用されたりもしてしまう。

その結果、争う必要の無い者同士が争う事になったりもする。

それが宗教の導くものなの!?

私はそうは思わない。

最初に述べた様に、
 
"宗教は人の数だけあって然るべき"

これが私の持論ではある。

その一方で、

"どの宗教であっても説いている真理は一つ"

とも思うんだ。

特に、すでに世界に広まっている宗教に関しては、ね。

そして、その真理とは。

"世界は常に一つであり全てである"

という事。

何を言っているのか、分からないよね(苦笑)

私も何を言っているのか、分からない。

どう言語化したら、正確に伝える事が出来るのか。

現状の私には、この様に言うしかないという事(汗)

とにかく、その一つであるはずの世界で、様々な争いが起こる。

それが私には不思議というか、そこに問題の根がある様に思うのです。

どの宗教も同じ事を説いているのに、何故、争わなければならないのか。

結局、どの様な教えであっても、広める者が人間である以上、人間の都合で歪められてしまう部分があるのではなかろうか。

そう。

そうやって人間の都合によって歪められた部分が争いの素。

ただ誤解無き様に申しておきますが、私は決して、争いそのものは否定しません。

人間も生命の一つである以上、避けられないものでもあると思います。

時には争う必要が生じる場合もあるでしょう。

しかし人間には知恵があるのです。

その知恵は無用の争いを避ける為のもの。

そして宗教もそんな知恵の一つ。

しかし現実は宗教が無用な争いの火種になってもいる。

それもこれも歪められた教えだから、なのではないでしょうか。

では、どうやって歪められる前の教え、

"世界は常に一つであり全てである"

を正確に理解するのか。

はっきり言って、人間にそれは出来ないだろう。

でも、近付こうとする事は出来る。

その為の手段の一つが、

"宗教は人の数だけあって然るべき"

だと思うのです。

結局、どの宗教であっても、何を信仰するのか決めるのは自分自身なのです。

そう考えると、自分自身が『神』である事に外ならないのではないでしょうか。

勿論、すでに皆さんの中にある『神』とは違うものなのかもしれない。

でも、その『神』を『神』たらしめているのは、自分自身の『神』なのでは、と。

そうなんです。

"『神』は人の数だけいていい"

"宗教は人の数だけあって然るべき"

なのです。

そして自分にその様な『神』がいるという事は、同時に他人にも同様の『神』がいるという事。

自分の『神』を信仰する為には、他人の『神』を尊ばなければならない。

他人の『神』を尊ぶ事が、自分の『神』を信仰する事に繋がるのです。

だから私は自分だけの宗教を追い求める。

恐らく、いや、間違いなく、真理に辿り着く事は出来ないだろう。

それでも私は歪められた教えでは納得が出来ない。

あくまでも自分で自分だけの宗教を構築していく。

様々なものを見て。

様々なものを聞いて。

様々なものを感じて。

無理でも、やるだけやって燃え尽きたいんだ。

そして、そうやって燃え尽きる為のものでもあると思う。

辿り着けない事で限りある命を全うする事が出来る。

勿論、皆さんがすでにある他の宗教を信仰する事を否定はしません。

どの宗教でも燃え尽きる事は出来ると思う。

ただ自分が信ずる『神』があるのと同様に、他人にも信ずる『神』があるのです。

その事だけは心の片隅に留めておく必要もあるのではないでしょうか。

そして思うのです。

本来、争う必要の無い者が争ったりしないで済む様に。

"宗教は人の数だけあって然るべき"

そして、それが、

"世界は常に一つであり全てである"

に近付く為の手段になる。

これが宗教に対する私の持論。