愚か者が吹く笛の音に雲が笑う

愚か者が漏らす戯言

マジョリティは決して「正義」などではない

欧州の難民問題が深刻化する中、一枚のイラストが物議を醸し出しています。
そして、結果的に削除される事になってしまったようなのです。
(削除されたイラストを此処で掲載するのもどうかと思うので、イラストの元だと言われている画像を見だしとして引用させて頂きました)

確かにあのような表現は問題があるのかもしれません。
しかし、それ以上にあのイラストに対する周囲の反応の方が問題があるように私は思うのです。

どういう事かと申しますと、あのイラストに対して、その作者に対して、誹謗中傷ともとれるような言葉がまかり通ってしまっている事です。
例え、どのような理由があろうとも誰かをむやみやたらに傷付けていいわけではないと私は思います。
そして、相手に非があるというのであれば、またその非を責めるというのであれば、尚更に冷静に且つ節度を以って議論を尽くす必要があるように思うのです。

しかし、現実はそうではなくて、あのような表現に対して攻撃をする事こそが一方的な「正義」になってしまっていて、あちら側の方々だけでなく、攻撃に参加しない者に対しても、その牙を向けたりもしているのです。
そして、その結果、削除に到ってしまったのです。

これでは何の解決にもなっていないように思います。
冷静な議論が尽くされないままに、このような幕引きをしてしまったら、今後も同様な事が繰り返される事になるのかもしれません。
本当にこのような幕引きで良かったのかと疑問には思いますが、それについてはいずれ答えが出るのかもしれません。

それよりも一方的な「正義」の押し付けが不要な争いを生んでいる。
此処ではその事を問題にしたいと思っています。

そして、それは以上の件に限らず、ネット上において、あちこちで日常茶飯事に起きているように思うのです。

例え、誰かが誰かに対して相手を尊ぶ気持ちに欠けた表現がなされていたとしても、それに対して相手の人格をも否定するような、罵倒ともとれる言葉で相手を攻撃してしまっては、同じ穴のムジナになってしまっているように感じます。
また、相手に非があるからと言って、寄ってたかって相手を非難する事はリンチが行われているように感じたりもします。

そして、それらの事を子供達が見ているのです。
我々大人がそのような事をしていれば、当然に子供達は真似をしてしまう事でしょう。
そして、それが子供達の中でマジョリティによる「正義」を形成させてしまい、いじめが行われる。
そして、いじめに因って歪められた人格が時に、悲劇的な事件を起こす事にもなる。
それは、決して「いじめられる側」だけの問題ではありません。
いじめをする事に因って人格が歪められ、それが悲劇に繋がったりもするのです。

だからこそ、本来は我々大人が「例え、どのような理由があろうとも、むやみやたらに誰かを傷付けていいわけではない」という事を身を以って示さなければならないと私は思うのです。

確かにマジョリティになる事で気が大きくなり、それが一方的な「正義」になってしまったりもするのかもしれません。
しかし、そうならない為にもマジョリティは常に「謙虚な姿勢」というものが必要なのではないかと私は思ったりするのです。

マジョリティは決して「正義」などではなく、単なる多数派にしか過ぎないという事を心に留めておく必要があるのではないでしょうか。

転載元URL(2015.10.8)
http://next.spotlight-media.jp/article/201052515876710247