読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

愚か者が吹く笛の音に雲が笑う

愚か者が漏らす戯言

教育勅語について

笛の音

森友学園の件で取り沙汰される様になった教育勅語

様々なメディアで様々な意見が飛び交っている。

パッと調べてみると、そんなにおかしなものには思えない。

ただ、少しだけ疑問を感じるところはあった。

それは「国の為に力を尽くす」というところ。

もう一つ「言動を慎む」というところ。

それ以外は大雑把に言えば「仲良くする」という事。

そして「向上する」という事。

の二点になると思うんだ。

仲良くする事は仲が悪いよりはいいよね。

向上する事も向上しないでいるよりはいい。

だから一般的な指針として何の問題もないと思う。

しかし私が疑問に感じた二点。

先ず「国の為に力を尽くす」の方。

私はナショナリズムは否定しない。

国家という枠組みは人間社会を上手く機能させるには必要なものであると考えている。

だから国民が国家の為に力を尽くすのは、ある意味、当然。

そうする事で社会が豊かになっていき、豊かになる事で自分に返ってくる。

自分自身の為にも国家に対する尽力はいい事ではあるよね。

しかしナショナリズムは行き過ぎると危険なものでもあると思う。

国の為に命を捧げる。

そこまでする必要は無いと思うんだ。

自分の出来る事、自分の役割を果たす事で国家に貢献する。

そういう意味での国家に対する尽力はいい事だが、それ以上の尽力を強いる事になってしまっては問題もあるんじゃないか、と。

勿論、強いてはいないのかもしれない。

でも、勅語として掲げられてしまうと、そう受け取られかねない事だとも思うんだよね。

だから一般的な指針としては危険だと私は考える。

次に「言動を慎む」の方。

日本にある慎みの美徳は分からないでもない。

でも、いつもいつも慎む事がいいとは限らないと思うんだよね。

ケースバイケースなんじゃないのかな、と。

余計な事は言わぬが花、の時もあれば、言うべき事は言わなければならない時もあるだろう。

勿論、慎みを求めているのも、余計な事を指しての事なのかもしれない。

でも、何が余計で何が余計でないのかは明確に決められる事ではないと思う。

その様なものに対して慎みを求める事は萎縮させてしまう事の方が問題なのではないか、と。

だから慎みの美徳自体は否定しませんが、一般的な指針としては疑問を感じるのです。

そして思う。

ナショナリズムと慎みに関しては別に教育の機会を設ける事にして、一般的な指針となる様な勅語からは外した方がいいのではないか。

12個あった徳目から「国の為に力を尽くす」と「言動を慎む」の二つを外して10個にするのは如何でしょうか、と。

その方がキリがいいし(笑)

冗談はさておき、少し疑問があるからと言って全てを否定するのではなく、少しずつでも良くしていければいいと思う。

YesかNoだけでなく、此処をこうしてみたら、みたいな事を議論してもいいのではなかろうか。

という訳で私なりに思った事を放言させて頂きました。